企業活動において、データ・技術・経営戦略は企業の生命線ともいえる重要な知的財産です。これらの情報が外部に流出すれば、競争力の低下や取引先との信頼失墜につながり、場合によっては企業存続に関わる重大なリスクとなります。
したがって、社内情報管理および情報漏えい防止は、あらゆる企業にとって喫緊の課題といえます。その中で、企業が自社の利益を守るために最も広く採用している手段が、
- 秘密保持契約(NDA:Non-Disclosure Agreement) と
- 競業避止契約(NCA:Non-Competition Agreement)
の締結です。
もっとも、これらの契約はしばしば「労働者の職業選択の自由を不当に制限するのではないか」という議論を呼び起こします。実際、ベトナム労働法および雇用関連法令の観点から見た場合、これらの契約は慎重な運用が求められます。
本稿では、現行法上の根拠および実務・裁判例をもとに、NDA・NCAの有効性と限界を検討し、企業が法的リスクを回避しつつ自社の知的資産を保護するためのポイントを解説します。
|
|
01 - NDA及びNCAの概要 |
1.1. 秘密保持契約(NDA:Non-Disclosure Agreement)
秘密保持契約(以下「NDA」といいます)とは、使用者(企業)と労働者の間で締結される契約書であり、労働者が業務上知り得た顧客情報、社内手続、技術情報、マーケティング戦略などの機密情報を、在職中および退職後においても不正に開示・利用しないことを約束するものです。
NDAは、情報漏えいを未然に防ぎ、企業の知的財産や営業上のノウハウを保護するための最も基本的かつ重要なツールといえます。
1.2. 競業避止契約(NCA:Non-Competition Agreement)
競業避止契約(以下「NCA」といいます)とは、労働者が退職後に競合他社で勤務したり、競合事業を設立・運営したりしないことを約束する契約です。
この契約では、一定の期間・地域・業種の範囲を定め、企業の営業秘密・顧客情報・技術的優位性を守ることを目的とします。
具体的には、
- 退職後XXX年間、同一業種または競合企業での就労を禁止する
- 特定の取引先・顧客に対する勧誘・営業行為を禁止する
- 競合事業の立ち上げ・出資・役員就任などを制限する
といった条項が一般的に含まれます。
■NDAとNCAの共通点と目的
両契約はいずれも、企業の機密情報・知的財産・事業戦略を保護するためのものであり、情報リスク管理および競争優位の維持という観点から極めて重要です。
ただし、NDAは「情報漏えい防止」、NCAは「競争行為の制限」というように、目的と適用範囲が異なる点を理解した上で、適切に設計・運用する必要があります。
|
|
02 - ベトナム法における法的枠組みと留意点 |
2.1. 関連する法令の概要
ベトナムにおいて、秘密保持契約(NDA)および競業避止契約(NCA)の法的根拠は、主に以下の法令に基づいています。
(1)民法2015年 ― 契約の自由原則
民法第3条第2項(民事関係の基本原則)
「個人および法人は、自己の民事上の権利義務を、自由かつ自発的な意思に基づいて設定・履行・終了することができる。
法律により禁止されず、社会倫理に反しない合意・約定は、当事者間で有効かつ拘束力を有し、他の主体もこれを尊重しなければならない。」
➡️ この原則により、労使間で締結されるNDAやNCAも、法令や社会倫理に反しない限り有効とみなされます。
つまり、当事者の自由意思に基づく正当な合意であれば、契約書として法的効力を有するということです。
(2)労働法2019年 ― 労働者の職業選択の自由
労働法第5条および第10条では、労働者の基本的権利として、以下が明記されています:
- 第5条第1項(a)
「労働者は、働く権利を有し、自由に職業・勤務先・職種を選択することができる。」 - 第5条第2項(a)
「労働者は、労働契約、団体協約、およびその他の合法的な合意を履行する義務を負う。」 - 第10条第1項
「労働者は、法律で禁止されない限り、任意の雇用主のもとで、任意の場所で働く自由を有する。」
➡️ これらの条文から、労働者の「職業選択の自由」は憲法的に保障された基本権であることが明確です。
したがって、競業避止契約(NCA)は、この自由を制限する性質を有するため、慎重な設計・運用が求められます。
(3)雇用法2013年 ― 雇用の基本原則
雇用法第4条第1項
「労働者の働く権利、職業および勤務地の自由選択を保障する。」
➡️ この規定は、雇用関係全体を通じて「就労の自由」を保障する大原則として位置づけられています。
したがって、NCAのように退職後の活動を制限する条項は、合理的な期間・範囲・対象に限定される場合のみ有効と判断される可能性が高いです。
(4)知的財産法2005年(改正済) ― 営業秘密の保護
知的財産法では、営業秘密(business secret)に関する権利を明確に定義し、第三者による不正利用・開示を禁止しています。企業はこの規定を根拠として、秘密保持契約(NDA)の締結および違反時の損害賠償請求を行うことが可能です。
■まとめ:契約自由の原則 × 労働者の自由権の調整
ベトナム法では、
- 一方で「契約の自由」
- 他方で「労働者の職業選択の自由」
という二つの法的原則が共存しています。
したがって、NDA/NCAを設計・運用する際には、契約自由の範囲内で、過度に労働者の自由を制限しないようにするバランス感覚が不可欠です。特にNCAは、期間・地域・対象職務・対価の合理性が明確である場合にのみ、実務上有効とみなされる傾向があります。
|
|
03 - 法的留意点および実務上の課題 |
● 労働者の「職業選択の自由」と契約制限のバランス
ベトナム労働法および雇用法では、労働者が職業・勤務地・雇用先を自由に選択する権利を明確に保障しています。そのため、労働者の自由を制限する内容を含む契約(特に競業避止契約)は、慎重に設計しなければ「労働原則に反する契約」として無効と判断されるリスクがあります。
● 労働契約との関係と分離の必要性
労働法2019年は、労使間の契約において秘密保持条項の設定を認めていますが、一方で、競業避止契約(NCA)に関する明文規定は存在しません。
したがって、NDAおよびNCAを有効に機能させるためには、以下の点に注意する必要があります:
- NDA/NCAを労働契約またはその付属文書に含めないこと。
労働法第15条第2項に基づき、労働契約において労働者の自由な就労を制限する条項は、契約原則に反するとみなされる可能性があります。
➡️ そのため、NDAおよびNCAは労働契約とは別個の「独立した民事契約」として締結することが推奨されます。
この場合、契約は民法上の「自由意思による民事合意」として扱われ、当事者が自発的に署名し、詐欺・強制がなければ法的に有効な合意として認められます(民法第3条、第385条等)。
さらに、労働法第5条は労働者に「合法的な合意を遵守する義務」を定めており、NDA/NCAが適法に締結されていれば、労働者にはその履行義務が発生します。
● NDA/NCAを明確に区別する意義
NDA/NCAを労働契約と分離しておくことで、
- 紛争発生時の法的性質の明確化(民事契約として扱う)
- 管轄機関の特定(労働紛争か民事紛争か)
が容易になります。
特に、NCA違反のケースでは、競合範囲・類似業務・地理的範囲の解釈をめぐる争いが多く、裁判所や仲裁機関で判断が分かれる傾向があります。
● NCA特有の法的リスク
現行法においては、退職後のNCAを明確に規定した法律が存在しないため、裁判実務上は以下の点がしばしば争点となります。
- 「競合企業」の範囲
- 「類似業務」の定義
- 「地理的範囲・期間の合理性」
したがって、契約の文言が曖昧な場合、一方的に無効と判断されるリスクがあります。
● 実務上の留意ポイントと推奨事項
企業がNDA/NCAを設計・締結する際には、以下の点に特に留意する必要があります。
① 自由意思
契約書には、労働者が自発的に署名し、強制・詐欺・誤認がないことを明記する。
この条項は軽視されがちですが、紛争発生時には契約の有効性を支える重要な根拠となります。
② 合理的な範囲設定(時間・地域・職務)
-
- 期間:原則1年以内が望ましく、特別な管理職・機密職種のみ延長可(理由を明記)。
- 地理的範囲:企業が実際に活動する地域または実質的利益を有する範囲に限定。
- 職務範囲:「類似業務」「特定の競合先」を明確に特定すること。
③ 労働契約との分離
NDA/NCAは独立した文書として作成し、労働契約の付属文書としない。
④ 紛争解決条項
契約書には、仲裁機関または管轄裁判所を明示し、紛争発生時の処理を迅速化する。
⑤ 損害賠償条項
違反が発生した場合の損害額の算定方法・賠償範囲を明確に定義する。
|
|
04 - ベトナムにおける実務と判例の動向 |
● 判例以前の実務傾向
ベトナムでは、秘密保持契約(NDA)および競業避止契約(NCA)の有効性が長らく明確でなく、裁判所によって判断が分かれる状況が続いていました。
特に、ベトナム憲法第35条(市民の職業・雇用選択の自由)および労働法第5条・第10条(労働者の自由就労の権利)に基づき、NDA/NCAを「労働者の基本的自由を制限するもの」として無効と判断された事例も存在します。
代表的な例として、
**タインホア省人民裁判所・判決番号 03/2023/LĐ-PT(2023年1月10日)**では、NDA/NCA条項を含む契約が「労働契約の延長的制約」とみなされ、労働法上の原則に反するとして認められませんでした。
● 判例第69/2023/AL ― NDA/NCAの有効性を認めた初のケース
2023年8月18日、最高人民裁判所司法評議会が承認した判例第69/2023/ALは、NDA/NCAの法的効力を正式に認めた画期的な事例です。
この判例において、裁判所は以下のように判断しました:
「NDA/NCAが労働契約とは独立した民事契約として締結されている場合、民法上の原則に従う限り、法的に有効である。」
つまり、
- 契約が労働契約と別個に締結されていること、
- 当事者間で自発的かつ自由意思に基づく合意であること、
- **民法の原則(自由意思・誠実履行・社会倫理の遵守)に反しないこと、
の3点が満たされれば、
NDA/NCAは民事契約として有効に認められることが明確化されました。
● 仲裁による紛争解決の適法性
同判例では、当事者が商事仲裁を紛争解決機関として選択した点も重要です。
商事仲裁法2010年第2条第2項により:
「少なくとも一方が商業活動を行う当事者間の紛争は、仲裁によって解決できる。」と定められており、
NDA/NCAを民事・商事契約と位置づけることは法的に正当と判断されました。
|
結論 ― 法的「盾」としてのNDA/NCAの活用 |
|
秘密保持契約(NDA)および競業避止契約(NCA)は、企業の無形資産(知的財産・顧客情報・経営戦略)を保護する有効な法的ツールです。 現行法ではNCAに関する詳細な規定は存在しませんが、
したがって、NDA/NCAは労働者に対する不当な制約ではなく、法と実務の両面で認められた「企業防衛のための法的盾(たて)」であるといえます。 |